こんにちは、ポワロです。
11月30日のNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」に旋盤職人の岩井仁(いわい まこと)さんが出演します。
岩井仁さんは町工場の多い東京都大田区蒲田で一人親方の旋盤加工を営んでいる職人さんです。
平成20年度(2008年)には、大田区が選んだ「大田の工匠」に初年度で選ばれています。
岩井仁さんが旋盤加工の業界第一人者と呼ばれる理由や経歴・プロフィールが気になって調べてみました。
岩井仁(旋盤職人)さんの加工技術が業界一と言われる理由は?
金属などの材料に対し、バイトと呼ばれる刃物(切削工具)を使って材料を削るように行う加工方法は、旋盤加工とフライス加工の2種類に分けられます。
- 旋盤加工・・・・・材料を回転させ、固定した工具を当てて削ります
- フライス加工・・・材料を固定し、回転させた工具を当てて削ります
旋盤加工は材料(対象物)を回転させて加工を行うので、円筒形の材料が向いており、寸法精度が出しやすいという特徴があります。
岩井仁さんは、小径長物の旋盤加工技術の第一人者と言われています。
要するに細長い円筒形のものの旋盤加工が得意ということです。
具体的には、長さ2mまでの長尺物を真直度0.1mmで加工でき、外径は0.01mmまでの精度で加工できるそうです。
真直度とは、真っ直ぐさを指定するもので、真っ直ぐなものの反りなどの許容に使われます。
真直度について言えば、同じ0.1mmであっても長さが10cm程度の短い部品に比べて、2mの長尺物のほうが加工が難しいのは素人目にもわかるように思います。
また、薄肉パイプの加工では、加工中に発生する熱変形を抑えながら精度を出すことができる技術を持っています。
しかも、使っている旋盤加工機は12尺(約3.6m)の大型汎用旋盤で、50年近く前のものだというのが驚きですよね。
小径長物の旋盤加工においては、ブレドメ(振れ止め)という工具を旋盤に付けるのですが、この工具を使いこなすのにかなりの熟練を要します。
岩井仁さんは、12尺の旋盤にブレドメを付け、細長いシャフト(円筒状の部品)を削るときに、バイトの刃先から出る切削音のかすかな変化によってブレドメのネジを回して微調整することで100分の1ミリの精度を出していくことができるのです。
岩井仁さんの経歴や家族について
岩井仁さんは1936年(昭和11年)生まれで、東京都港区の出身です。
祖父の代までは神田錦町でかざり職人(錺職人)の家柄でした。
錺職というのは装飾金具やかんざしなどの金具等の金属の細かい細工をする職業のことです。
港区の家は空襲で焼かれたので、次男だった岩井仁さんの父親は蒲田に移りました。
岩井仁さんの母方は文系の家系だったらしく、母親から「職人にならずに、勤め人になって」と言われ続けた岩井仁さんは、母親の希望どおりサラリーマンになりました。
しかし、結婚直後の1965年(昭和40年)に、職人のDNAには逆らえず、旋盤工の道に入ったのです。
岩井仁さんは、知り合いの工場で仕事を覚え、その工場が廃業したので独立して創業しました。
国産の原子力発電が1966年(昭和41年)茨城県東海村でスタートし、大手メーカーが原子炉の制御棒を上下させるシリンダー(中空の円筒状の内部をピストンが往復することで物を動かす機械部品)を大田区の町工場に発注しました。
シリンダーの素材のステンレス鋼は国内では作れずスウェーデンから輸入して、1本27万円、加工賃が1本2万円でしたので、もし10本に1本でも加工不良にしたら大赤字という大変な仕事だったのです。
岩井仁さんは、その後25年間原子炉の制御棒のシリンダーの仕事をやり続けました。
長くやることで、上手くなったのです。
あまり儲かりませんでしたが、シリンダーを削らせたらあそこだ、という信用を勝ち取ることができたのです。
岩井仁さんの後継者育成について
岩井仁さんには子供さんはおられるようですが、仕事は継いでいません。
従って、有限会社岩井製作所は岩井仁さんがひとり親方で仕事を続けています。
バブルがはじけて、設備投資なんてもうできない時代になってしまいましたが、岩井仁さんは自分の工場を大きくする代わりに、知り合いの工場と共同でひとつの仕事を請け負うという方法を考えました。
各社が自分の受け持つ仕事について希望単価を出して、その代わり責任も各社が負うという共同受注方式です。
岩井仁さんには跡取りはいないのですが、仲間うちの旋盤工が、こんな加工はどうやったらいいのか、と相談に来るので、教えているそうです。
そうしたら、次にやって来たときに、オヤジさんうまくいったよ、ありがとうねって言ってくれるのです。
こうして、岩井仁さんは自分の家にではなく、蒲田という町に自分の技を伝えているのです。
まとめ
今回は、小径長物の旋盤加工技術の第一人者と言われている岩井仁さんについて調べてみました。
高い機械を買い込んで誰でもできる仕事をやっていた工場は、仕事をみんな中国に取られて廃業したところが多かったそうです。
日本の得意としていた職人技を、今後も伝承していってもらいたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
【この記事を読んだ方におススメの記事はコチラ】

